住吉の大神とは底筒男命・中筒男命・上筒男命の三柱の神々を総じて申し上げ、古事記・日本書紀などの神代の説話にあるように伊弉諾命がすべての災禍や罪穢を祓い清めるために禊をなさった時、その水辺に出現された神々たちで、神社神道で大切な行事とされる「お祓い」に深く関わりをお持ちになり、また息災(健康)延命(長生)寿福(幸福)をお授けになります。
息長足媛命は神功皇后のことを申し上げ、住吉大神を特にご信奉されたので、後に住吉四柱の神として合祀されるようになりました。また八幡さまと称えられる応神天皇を安らかに御出産されたことから、安産と子宝を授けて下さるという信仰が今も続いています。
淀川や大和側の河口付近に形成された砂州は、大小の島々となって難波八十島と呼ばれていましたが、わが九条島もその中の一つでありました。
それらの島々は自然と人為が作用し合って次第に陸地化し、江戸時代になるとその周辺部は急速に新田の開発が進められるようになりました。
九条島では寛永元年(西暦1624年)ごろこあら新田の干拓工事が始められ、その完成とともに東西二十五間(45メートル余)南北七十五間(136メートル余)の境域が区画され、社殿が造営されて、産土神として新田・河川の守護神として住吉大神が祀られました。
やがて時代の推移と共に九条新田の田畑は人家となり、大正時代から昭和時代初期にかけて、西大阪の中心街・歓楽街として最も繁栄し、神社境内には常時映画館や出店があって昼夜参拝者で賑わい、氏子も四区にまたがって4萬戸を超え当神社として最盛期を迎えましたが、昭和20年(西暦1945年)三月十三日第二次世界大戦中の空襲によって神輿庫一棟を残してことごとく焼失しました。
その後、神職・氏子崇敬者が共々に復興に専念して、昭和40年に現在の鉄筋コンクリート造二階建の社殿を竣工、つづいて参集殿・渡廊・鳥居門・手水舎・石玉垣などの付属建造物を昭和46年にそれぞれ完成し、神社としての規模をようやく整えました。
なお当神社の故事については、江戸末期以降の地誌・名所図会などに種々の記載はあるものの傍証のできる記録文書に乏しく、茨住吉神社の「茨」についても菟原群住吉郷の住吉神社(現在の元住吉神社)から分祀したのでとも云い、また新田開発当時「いばら」が生い茂った荒地に祀られていたからとも伝えられますが、特定できる資料はありません。
現在、境内末社には玉照稲荷神社と市杵島姫神社があります。